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方法概念の今のこの運動を導くために、私は対象概念の方法概念への運動を借りた。構成前の対象は構成された対象となると云った。研究の対象は学問の内容となった。今この対象概念のこの運動を徹底すれば、――その過程は方法に就いてのアナロギーによって明らかにされるであろう――、対象は遂には方法の規定となって現われなければならない筈である。今迄は実践的に行なわれる研究の対象であった対象が、其の本来の地盤を離れて学問内容となり、更に学問の方法的規定に変化するであろう。かくして対象概念は次第に稀薄となり遂に方法概念にまで運動する。この運動の経過する範疇は全く方法の場合に於ける三つの兵站――研究方法・学問構成・対象規定――に平行することはそうありそうなことである。第一の場合――研究の対象――は、例えば生物学の研究対象は生物であるという意味の、対象の観念によって代表される。吾々は生物学的な専門的研究によって教えられることなくしても何を生物として取り扱うかを大体は知ることが出来るであろう。云うならば夫は凡そ動物又は植物と呼ばれる一切の生命ある物を含むものと考えられる。生命あるものとは何かと尋ねる時、古典的常識は例えば営養を摂取するものと答えるであろう*。生物学の研究の対象を生物として、又星学研究の対象を天体として、吾々は容易に云い解くことが出来る。この容易さはその対象が一つの常識概念として、学問的研究を俟つまでもなく、学問構成以前に於て存在することを意味するのに他ならない。構成以前とは研究以前の、即ち常識的な、存在を意味するであろう。尤も人々は常識と学問的研究との間に漸次の移り行きを認めることによって、この構成の前後が一つの概略的区別に過ぎないと云うかも知れない。そうすればこの区別は要するに程度の差であって、云わば同じ色の連続スペクトルの任意の二点を偶々私が異る二つの色として指摘したようなことになるかも知れない。そしてそのような偶然の区別は表象散漫によって同一とも異るものとも考えられそうである。――実際又弁証法的諸段階にあっては吾々はそのような不精確さに少なからず出逢うであろう。併しながら常識から学問的知識への移り行きは決して漸次の概念によっては尽されない。常識はそれ自身の尺度を持ち学問的知識はそれ自身の別の尺度を有つ。恰も世論がアカデミーの理論とは別な勢力を持つように、街頭と研究室とは別な社会的存在として現われる性質を持っていることは事実である。二つのものは全くその原理を――出発を――異にする。一から出発してそのまま他へ到着することは出来ない。吾々は常識から出発し――何となれば如何なる人もDaseinとしてはまず第一に常識者であるから――、そして若し彼が学者であるならば、一つの転換によって学問研究に向わねばならぬであろう。この転換以後に発生した学問的概念ではなくして、正にそれ以前にすでに吾々が持っていた常識概念が研究の対象となるならば、それが構成以前の対象概念なのである。構成の前後は転換の鋭角によって折目づけられた二つの分野であるであろう。構成以前の対象概念――研究の対象――は研究すべく与えられたる常識概念に於てその実例を見出すと考えられる。一般に博物学的研究の対象は之ではないであろうか**。
オレは遠くへ行きたい、と考えていた。誰にも邪魔されることなく、退屈なくらいの自由がある場所へ行きたいと考えていた。こんな思春期の子供のようなことを考えていたからといって、あの頃のオレが思春期の子供だったわけじゃない。あの頃、オレはもう三十に手が届いていたし、子供もいた。かといって、オレは家庭を煩わしく思っていたわけじゃない。子供は毎日風呂に入れてやっていたし、女房とも同じ布団で寝ていた。毎日セックスをしていたわけじゃないが、確かに愛していた。しかしだ、オレは遠くに行こうと考えた。
「私、一人ですから好いんですよ、」
「ギヤアーツ!」といふ、おそらく嘗て地上では聞いた験しのない物凄い叫声に打たれた。同時に私も爆弾のやうに仰天して、
もう客足が斑になつて其処にはすぐ前のストーブの傍のテーブルに一組三人の客がいるばかりであたりがひつそりとして、その店に特有な華かな空気がなくなつていた。哲郎はその静かな何者にもさまたげられない環境に心をのびのびとさして、夢のような心持で宵に聞いた女の話を浮べていた。
加来さうか。今、顔は出しにくいか。しかし、ちよつとその顔を見たくもあるな。いや、しばらく眠らう。
(但しこの場合の内容は直ちに対象を意味するのではない。何となれば、もし内容が直ちに対象と一つであるならば、それは自然と精神とに分類されなければならなかった筈であって――前を見よ――、自然と文化とではなかった筈であるから。それではこの内容は何を意味するか、後に之を理解する機会があるであろう。)
吾々は他の言葉で存在の今までの規定を繰り返そう。直接なものは、現象は、即ち存在は、出逢うことであると言うことが出来る。それ自体に独存的に存在していながら、偶々主観の鏡に写ることによって吾々に通達出来るようになるような、そのような存在でもなく、主観の普遍的必然的構成に於て初めて浮び出るようなそのような存在でもなくして、吾々の存在はまず第一に現象するのであった。そしてこの現象が出逢うということである。そして出逢うことの最も根本的な――根本的の意味は前を見よ――出逢い方は世界に於て出逢うことに外ならない。世界に於て出逢うとは関心を以て相会することでなければならなかった。この意味に於て吾々は語ることが出来る、最も根本的な存在は交渉的存在であると。
「俺が山田だ。」
幾つかの台の上に、幾つかの礬土の塊がある。又外の台の上にはごつ/\した大理石の塊もある。日光の下に種々の植物が華さくやうに、同時に幾つかの為事を始めて、かはる/″\気の向いたのに手を着ける習慣になつているので、幾つかの作品が後れたり先だつたりして、此人の手の下に、自然のやうに生長して行くのである。此人は恐るべき形の記憶を有している。その作品は手を動さない間にも生長しているのである。此人は恐るべき意志の集中力を有している。為事に掛かつた刹那に、もう数時間前から為事をし続けているような態度になることが出来るのである。
学問性の有つ教導性は、学問の有つ公共性の一つの保証の他ではない。何となれば、教導性とはたとえば学問の教育を説くために指摘された規定であるのではなくして、実は、学問が学問であるためには、個人的人格の内面性を踏み越えることが出来なければならぬという、学問の公共性を説くために採用された規定であるからである。事実、学問に於ては特に、独り好がりを人々は最も悪むであろう。公共性を有たない或る人の理論的労作は、たとい其の人によってどのように価値高く空想されようとも、それであるからと云って学問性を有つことが出来るのではない。従ってそれは厳正な意味に於ける学問の名に値いすることは出来ないと考えられる。今、公共性とは普遍的通用を意味する。併しそれは学問が事実に於て通用し、又は統計上概して通用し、或いは又公算上恐らく通用するであろう、と云うのではない。そうではなくして原則に於て普遍的に通用する筈のものであり、又普遍的に通用して然るべき資格を有つものであることを、それは意味する。学問性を有つが故に却って事実上普遍的に通用せず、学問性を欠くが故に却って事実上一般に学問らしいものとして通用するような、そのような場合を人々は知っているであろう。さてこのような原理的な――単に事実的なものとは異る――公共性を人々は普遍妥当性と呼んでいる。そしてそのような人々は又之を以て学問性の規定と見做しているのである。故に教導性の概念が所謂普遍妥当性の古典的な云い表わし方に相当する一面を有つと云うならば、この言葉は許されるであろう。かくて学問性は普遍妥当性として――但し無論向に規定した通りの教導性に相当する学問に固有な普遍妥当性として――一層確実に規定されることが出来た。
津丸いえ、それが、実は、ただ今大里先生に加来先生の生前の業績について書いていただくやうにお願ひしてみたんですが、どうしてもダメだと云はれるんで、それなら細木先生にと思ひまして……。
そして今、手塚さんは、なんということを私に言ったか。私の方を愛していたと。おう、私の方をだって。そんなことがどうして言えるのだろう。そして、私の愛情を求めるつもりではないと言いながら、私の手を両手に握りしめた。汚らわしい。そして、分りますね、分ってくれますねだと。いったい、何を分って貰いたいのだろう。然し、私にも少し理解しかけたことがある。
冬菜わたしからでは、ただ取越苦労のやうにとられやしないかと思ひますの。
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